はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
会社の命により、1997年4月に香港に赴任、俺の海外駐在がスタートした。
当然家族と共にすぐにでも海外の生活をスタートしたかったのだが、会社規程により3ヶ月以上経過しないと家族を呼び寄せることができなかった。
しかたなく、当時小学校1年生の長男、2歳になったばかりの次男をカミさんに託してのプチ単身赴任となった。
香港へはそれまで数度出張したことがあったので、なんとなく街の雰囲気はわかっていた。
素晴らしくエネルギッシュ、すべてが物凄いスピードで流れていく。
高温で超多湿。
繁華街の人の群れ。
改めて住み始めてみると、そんなものに圧倒された。
出張で滞在するのと、住んでみるのは大違い。
もちろん会社での周りの目も違う。
得意ではあったがやはり会話もままならない英語。
香港ネイティブの広東語などはカケラもわからない。
生活圏にどんなお店があって、どんなものが買えるのかもわからない。
3ヶ月は家族を呼び寄せられないわけだ。
一家の長が異質の文化のなかで、ちゃんと生活できるだけの経験がないまま、カミさんと小さい子供たちを呼び寄せられるわけはない。
じっくりと仕事と環境に慣れ、十分な準備をしてから家族との生活がスタートがなされるべきなのだ。
インターネットも黎明期だった。
電話回線を使ってモデムで「ピーヒョロロ〜」と通信し、メールがなんとかやりとりできる時代。
香港の街を歩き回り、かき集めたパーツで組み上げて、初めて自分のパソコンを手に入れた。
しかし、日本にいる家族はパソコンなど持っていない。
携帯電話すら持っていなかった。
なので、ずいぶんと手紙を書いた。
どんなことを書いたのか、どんなふうにして送ったのかは今となってはまるで覚えていない。
でも、手紙を送り、戻っって来たら返信をする。
そんなことを繰り返していた。
考えてみると、アナログな世界も時間がかかるもどかしさが面白かったのかもしれない。
そうこうしているうちに、3ヶ月が経過した。
長男坊の一学期終了を待っていよいよみんなが香港に来ることになった。
日本では、それまでに乗っていた車の売却、借りてたアパートを解約して国際引っ越し。
それまでそんなことをやったことがなかったカミさんにして、車を売却するときに少し上乗せで引き取ってもらったと後から自慢していた。
なんと女性の強いことよ。
1997年7月24日。
JALのファミリーサービスを使って、カミさんと子供たち2人が、今は無き「啓徳空港」に降り立った。
これまで海外には一度も出たことがなく、このためにパスポートを取ったカミさんと子供たち。
ファミリーサービスでスタッフが丁寧に対応してくれたとはいえ、どんなにか心細かったろう。
会社のハカライ?でビジネスクラスで来たらしいから、それなりに快適だったと今更ながらに振り返ってはいるけれど。
俺は昼食を取った後、午後から休んで会社の車で迎えに行った。
昼過ぎに到着、多くの人たちが降りてくるが、なかなか降りてこない。
どうしたのかと待っていると、最後にスタッフに連れられて出てきた。
ああそうか、ファミリーサービスの場合、一般の人たちが降りた後でゆっくり降りてくるのだっけ。
自動ドアがあいてニコニコ笑っているカミさん。
長男坊と次男坊がスロープを走ってくる。
「パパー!」という長男坊に反して、「このオジサン誰だっけ??」の次男坊。
「ちょっと痩せたでしょ」というカミさん。
結婚してから一番長い時間離れたいたものなあ。
そしてその間、お互いの生活は大きく変わったものなあ。
嬉しさ100%。
若かったこともあり不安はあまりなかった。
そういえばその日、以前から目をつけていた繁華街の高級中華料理でアワビをみんなで食べたっけ。
そしてそれから結局10年も滞在することになった。
最初は不安そうな顔をしていたが、最後には泣いて香港を離れたのはカミさんだった。
なんと女性の強いことよ。